桑原聡建築研究所

Satoshi Kuwahara Architectural Studio

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2011年12月のアーカイブ

Column

2011年12月 [ 5 entry ]

忘年会

通常はカレンダー通りの我が事務所にしては少し早いが、今日を一旦仕事納めにした。
明日から帰省したいと申し出たスタッフに合わせて、忙しかった今年の締めは少しゆるくした。
今年はスキーの計画をしていない僕はズルズルと電話のない平和な事務所で過ごすことになりそうだ。
まだ年賀状も書いていないのでちょうど良い。
今年やり残したことなど考えながら備忘録とにらめっこしてみよう。
さて、男ばかり五人所帯の今年、忘年会はガッツリ焼き肉で。
お開きで外に出て夜空を見上げると今日も満天の星空。
冬の大三角形、オリオン座、東京でも案外きれいに良く見えるのだ。

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再会

高校一年生の時の友人5人組で久しぶりの再会を果たした。
僕らの高校は二年生でクラス替えがあったから通常のクラス会ではなかなか会うことのできない友人たちなのだ。
なにしろ僕の高校生時代はひとクラス45人で9クラスもあったころだ。
普通は、クラスが変わって卒業するとそれきりというのが相場だろう。
そこはバンド仲間でもある五人だから、結束がかたい。
休みには決まってキャンプに行ったので思い出はたくさんある。
15、16の頃なので無茶もたくさんした。
卒業から三十年以上経っているけれどもやはりその当時のキャラは健在でお互い全く変わっていないのを確認し合う。
トレンドに敏感なO、秀才系のA、学究肌のI、盛り上げ役のJ、そして我が道を行く僕。
次はタイとマレーシア、二つの国を股にかけてビジネスを展開しているJのところで集まろうという約束を交わして解散した。

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メリークリスマス

クリスマス3連休となった今年、しかし、特別どこにいくでもなく、いつもとかわらないお休みモード。
一つだけクリスマス気分を味わえたのは毎年恒例のサントリーホール、メサイアコンサートに行ったことくらい。
今年のメサイア演奏会、本番まで時間がなかったのか、どことなくズッコケ気味にスタートした。
最初の予感はそのまま的中し、おおいに乱れた。
それでも最後の拍手喝采にはブラボーの声も混じる。
クリスマスだもの。。。17番デュエット、39番合唱、47番合唱。これを聴かないとクリスマス気分が盛り上がらない感じは観客みな一緒だろう。
帰り道、車からみた六本木の街は華やいでいた。
今年はクリスマス礼拝にも行かずに家に帰り、この時期に九州の実家から送ってもらう河豚をありがたくいただいた。

ところで、サンタさんは今年も無事玄関の鍵をこじ開けてやってきました。
煙突のない我が家、オートロックも突破し、エレベーターに乗り、玄関の鍵も突破してやってくるサンタさん、本当にご苦労様です。

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ルートロン修理

石神井の実家の照明が点灯しなくなったので僕が見に行けるまでの間しばらくスタンドを使ってしのいでもらったが、結局僕がみてもどうにもならず、ルートロンアスカのS氏に依頼して修理をすることにした。
今なら配線の状態、シーンの設定値、全て記録で残しているので誰がみても分かるようになっている。
しかし、14年前に手がけた実家の場合は全く書類が残っていない。
自分の家だという油断もあって配線もどこがどうなっているのかサッパリ覚えていないのだ。

20111222.jpgそんなことも含めてS氏に相談したところ、ルートロン社内でもそうした問題に直面していて、どこから買ったか分からない器具や、倒産や廃業など施工者不在のケースなど、一般の電気屋さんでは手が付けられない現場がたくさんあるそうだ。
そうした現場を救うためにちょうど体勢を整えたばかりという。
渡りに船とばかり、この年の瀬の慌ただしい中、無理云って朝一番の調査を段取り、現場立ち会いしてきた。
結局、1時間程の調査でスイッチ本体の単純な故障と分かり、スイッチ交換で無事点灯を確認した。
ついでにシーン設定も再度行い、ロックを掛けた。

石神井公園から理科大まで2時間かかる。
午後の授業に向かうために小走りで駅に向かった。
寝坊して試験に遅刻した33年前を思い出した。

アントニン・レーモンド

ひょんなことからアントニン・レーモンドに興味を持った。
吉村順三や前川國男が所員として勤めたレーモンド事務所。
現在の住宅作法の基礎はすべてここに見いだすことができる。
ところが現存する作品は極めて少ない上に資料も少なめ。
渋谷区の図書館で二冊ほど関連する本を借りてきた。

20111216-2.jpg20111216.jpg「軽井沢夏の家」を巡るコルビュジェとのやり取りはとても興味深い。
1930年にコルビュジェが発表した南米チリに計画した「エラズリス邸」。
これに触発されたレーモンドは、大胆なことにこの計画案をそっくり「写し」とった上で日本、特に軽井沢の気候にあわせて翻訳し、自身の別邸として建設。
さらに、1934年、アーキテクチュラル・レコード誌で発表。
発表に際してコルビュジェへからのインスパイアであることを告白している。
ところがこの記事写真を「ちら見」したコルビュジェは怒り心頭。
盗作騒動に発展する。
コルビュジェは件の告白文は見ていなかったようだ。
コルビュジェから送られた抗議文に対してレーモンドからの友好的な書簡がコルビュジェのもとに届く。
「写し」と「贋作(がんさく)」の違い。
そのことを理解したコルビュジェは態度を一転。
レーモンドの翻案に対し賛辞のことばを返した。
ただし、「先に云っといてくれよ」とも。
のちのコルビュジェ作品集1929-34には、こうしてできた「軽井沢夏の家」が唯一コルビュジェのお墨付きの「写し」として掲載されることになったという。
フランク・ロイド・ライトの助手として来日したことを考えると二人の対照的な巨匠とこれだけ直接的に関わったというのも興味深い。

また、こんな話も。
戦時の一時帰国を経て、戦後ただちに再開されたレーモンド事務所。
アメリカ企業の日本進出特需で大忙し。
いきなり50名の所員をかかえる大所帯に。
住まい兼事務所としてもってこいの場所がアメリカ大使館アパート、ペリーハウスの建築現場だったようだ。
しかし、ここはアメリカ合衆国所有の治外法権の土地。
そこに私物を勝手に突貫で建ててしまったという。
すぐに立ち退き命令が出て慌てて麻布笄町に移転する。
その際に建てた建物がレーモンド自邸として知られる住宅になる。
そんな理由から、コストと工期、全てがリーズナブルかつ論理的に構成された住宅の誕生となった訳である。

とにかく、やることが自由奔放で大胆、そして最終的には「結果オーライ」的な強運の持ち主なのだ。
そうしたレーモンドの行動がピュアな建築少年のように思えて微笑ましく、ますます興味が湧いてきた。

そんな訳で早速、1月に「高崎建築ツアー」を計画した。
レーモンド自邸の「写し」である「旧井上邸」を見学し、群馬音楽センターでマーラーを聴く。
「写し」というのはこの住宅、レーモンドの設計ではなく、レーモンドをリスペクトする高崎の実業家、井上房一郎が自邸建設にあたって棟梁に笄町のレーモンド自邸を実測させて完成させた住宅なのである。
もちろんレーモンドにとってこのことはウェルカムだったようだ。

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