桑原聡建築研究所

Satoshi Kuwahara Architectural Studio

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2014年10月のアーカイブ

Column

2014年10月 [ 20 entry ]

スティング

テレビを見る習慣の無い我が家だが、朝、娘がシャキッと起きるのにテレビが有効だということに気付き、先週から娘の朝の起床時間である、6時15分にEテレのスイッチを入れることにした。

月曜日は子犬のチャロのお話。
このチャロが観たくて彼女は子犬のように跳び起きてくる。

そして、今日、水曜日は『スーパープレゼンテーション』
「TEDカンファレンス」を題材にした番組だ。
TED(Technology Entertainment Design)は、アメリカ、カリフォルニア州で大規模な講演会を主催している組織。
学術・エンターテイメント・デザインなど様々な分野からの著名な人物がプレゼンテーションを行っている。

20141029.JPGそして、今日のプレゼンテーションは、イギリスのミュージシャン、スティング。
彼は、1951年、イギリス北東部、造船業の街、ニューカッスル生まれ。
1976年にロンドンに移り住み、ザ・ポリスを結成。
5枚のアルバムをリリースし、グラミー賞を6つ獲得した。
1985年以来、ソロ・アルバムを14枚リリース。
しかし、その後90年代に入り、曲が書けなくなると言うスランプに陥っている。

最新作『The Last Ship』は、この秋からNYのブロードウェイでミュージカル上演されている。

The Last Ship Sails(最後の船が出る)と繰り返し歌われるこの歌、実は曲が書けなくなると言う長いスランプの後の新境地だという。

このスランプに直面してスティングは、かつて自分が嫌い、飛び出た故郷にもう一度戻っている。そして、この造船というストーリー、方言、土臭いメロディで、ブロードウェイのミュージカルを作り、自分のローカリティを通して、世界に向けて表現していこうとしたのではないかと思われる。

今日の朝テレビ、娘はあまりピンときていなくって、むしろ僕の方がじわっ、と来たのだが、その後6時25分から始まる「みんなの体操」までに朝の身支度を済ませることを目標にしているので、体操を一緒にするころには元気印になっているのだ。

ところで、資産総額 312億円といわれるスティング。
社会活動家としても人権活動家としても知られている彼は、6人の子供が居るが、「子供には財産を譲らない」「働いて金を稼げ」と明言していると言う。
なんと、かっこいい。

南イタリア13

ソレント
Sorrento

ソレントは世界的に有名なリゾートで、アマルフィー海岸の入り口に位置しています。
ソレントと言えば必ずと言ってよいほど「帰れ、ソレントへ」というカンツォーネが想いうかぶのではないでしょうか?
僕たちはこの街で唯一の贅沢をさせてもらって、五つ星ホテルから一歩も外へ出ない3日間を過ごしました。

このホテル、パルコ・ディ・プリンチピといって、建築家ジオ・ポンティ(Gio Ponti、1891年11月11日-1979年9月16日)が設計したホテルです。
1962年に竣工しています。

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アルネ・ヤコブセンによるデンマークの「SASロイヤルホテル」(現・ラディソンブルーロイヤルホテル)は 1960年に完成しています。
こちらは、建築家が、家具や照明、カーペットやドアノブ、カトラリーにいたるまですべてのデザインを手がけた、世界で初めてのデザインホテルと言われています。
その僅か2年後の完成ということからすると、ジオ・ポンティはちょっと悔しかったのではないでしょうか。
このホテルでも、ジオ・ポンティが全てをデザインしているからです。

そして、今でもこのホテルはジオ・ポンティを誇りにして全てを当時のまま保っています。
ちなみにこのホテルの床タイルはINAX(現LIXIL)が復元していると聞いています。

このホテル、断崖絶壁の上、崖にせり出して建っています。
崖下のプライベートビーチへは絶壁の中に刳り貫かれたエレベーターに乗って降りていきます。
私たちは、ビーチでプカプカ、プールでもプカプカ、一日中海水に浸かって過ごしました。

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南イタリア12

マテーラ
Matera

20141026-1.jpegこの街は地形的に台地が渓谷に向かって浸食されて崖を形成していて、この崖に洞窟を掘って暮らし始めたのが都市の起源となるためにその崖の裾野から台地の高地に向かって等高線に沿って拡張していました。
しかしながら、結果的にあとからできた山頂部に繁栄をとってかわられたために裾野の位置の調整が衰退の時代に行なわれたのです。
マテーラでは多くのサッシ(岩窟住宅)が衰退時期に捨てられたと見えます
これは山岳都市の基本構成の真逆です。

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実は、この街で特徴的な三層構成、つまり、岩窟住宅、組積住宅、山頂住宅は貧富の格差そのものなのです。もともと開拓民は岩窟に住み始め、徐々に上に拡張してやがて支配階級は山頂に屋敷を建てたのです。
しかしながら、貧しい農民は不衛生な岩窟に住まざるを得ませんでした。
さらに近代社会に入って、山頂の背後の土地、台地上のソーシャルアパートに農民は移住させられたので、岩窟は倉庫や家畜の居場所になりました。
更に遺体安置所になって放置されて今日に至ったのだそうです。

いま僕たちがサッシの住宅として好んで泊まっているのも、ちょっと前までは人骨や衣類などのボロキレの捨て場だったそうです。
今、これらは全て世界遺産となり、ホテルやレストランとして蘇っています。
ここには、美しい岩窟教会が幾つもあり、湿度のせいか中世のフレスコ画が多数現存しています。

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ところで、アルベロベッロのトゥルーリもそうでしたけど、どれもさらに下があって、雨水を貯める構造になっています。
それは都市住宅でも一緒で、オストゥニで泊まったアパートも、レッチェで泊まったパラッツォも、地下に通じる井戸が上階からダムウェーターみたいに通じていました。
ここマテーラも当然そうなっています。

岩窟の中は奥に行くに従い、また、下におりるに従い、ひんやりしていきます。
ワインセラーと同じく一年中一定温度ということなのです。
しかし、一方でどうしても湿気処理の問題は発生します。
この場所は、気候的には湿気の少ない場所だから成り立つのですが、日本では考えられないですね。
因みにマテーラで泊まった部屋では、1日あたり5リットル以上は除湿出来ていました。
除湿器の無かった時代にはそれでもつらかったとおもいます。

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超高齢化社会の新基軸

20141022.jpg人間は生きていれば必ずいつか「老人」と呼ばれるようになるのでしょうか。
そういえば、僕の奥さんはそれをとても嫌がっていました。
結局、先に亡くなってしまいましたから、彼女は望み通り、もはや「老人」と呼ばれることはなくなった訳です。

シニア社会とか、高齢化社会と言われるけど、では、いつから僕たちはシニアであり、高齢者になるのでしょうか。
きっと、一般的にはそれは本人が、或いはパートナーが、定年退職した時なのでしょう。

しかし、僕のように定年退職がない職業の場合、身体的な理由で、絵が描けなくなった、とか、演奏ができなくなった、とかで判断されるのでしょうか?
仕事を依頼する人がいなくなっても、からだが動かなくなってもやりたい仕事はたくさんあると思うので、そうすると、リタイヤーがないわけで、いつまでたっても「シニア」にはなれないことになります。
つまり、誰もが、リターヤーしないで、自分がこれまで「本当にやりたかったこと」に「転職」すれば「シニア」は発生しないことになります。

さて、今日、僕は往復の時間をかけて新幹線で盛岡まで行って、これまた東京から招かれた三菱総研の松田智生さんの話を聞いてきました。
お題は「シニアが輝くプラチナ社会と多世代共創コミュニティ〜ピンチをチャンスに変える視点〜」

今、僕はプロジェクトとして、高齢化社会を背景とする二つの案件を、抱えています。
また、僕に住宅を依頼されるクライアントさんたちも、皆さん同様にそうしたテーマを抱えています。

松田さんは、はっきりと言います。
税収40兆円に対する医療費、38兆円。という、驚くような支出を下方抑制することで、これからの未来を少しでも明るくしましょう、と。
これは、いつまでも「老人」と呼ばれたくない僕たち自身がやらなければならないことです。

また、ここで語られている「シニア」をそっくりそのまま「子育てママ」に当てはめても話が成り立ってしまうことにも気がつきました。
人は社会との絆が揺らいだときにとても不安になるものなのです。

できるだけ「老人」にならないためのデザイン。
社会との「絆」を失わないためのデザイン。
それもまた、今、僕たち居住環境の専門家たちは考えないといけないわけです。

「牧野記念庭園」

植物学者牧野富太郎(1862‐1957)の記念館が高知県にあります。
この建物は、建築家 内藤廣氏設計の建築としてよく知られています。
太平洋を見下ろす高台の起伏に富んだ斜面地にあって、強風にさらされる過酷な自然条件に拮抗するように建つ姿が美しい建物です。
地を這うようなその姿と、ゆるく湾曲しながら鞘のように包み込まれる屋根形状は、牧野富太郎博士が種子植物やシダ植物の権威であることから、理解することも出来るでしょう。

実は、牧野富太郎は僕の実家の隣町、大泉学園町に住んでいました。

牧野富太郎は、1862(文久2)年4月24日に高知県高岡郡佐川町の造り酒屋「岸屋」の跡取りとして生まれましたが、洋学の最先端教育に嫌気がさしてしまい、不登校になります。
だから、博士の最終学歴は小学校退学、なのだそうです。
植物の知識は独学で身につけ、後に東京帝国大学理学部植物学教室へ出入りするようになり、以後、東京を拠点とします。
1925(大正15)年、大泉に居を構え、1957(昭和32)年に満94歳の生涯を終えるまで、自邸の庭を「我が植物園」としてこよなく大切にしたといいます。

ここは、1958(昭和33)年から「牧野記念庭園」として、庭園及び資料館を公開しています。
こちらも建築家 内藤廣氏の設計です。
今日は用事があって近くまで行ったので見学してきました。
保存された木造平屋7坪の書斎の外壁に「學問は底の知れざる技藝也」と書かれていたのを見てぐっときました。

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展覧会「加地邸をひらく-継承をめざして」

公開されたばかりの「加地邸」を見学してきました。

「加地邸」は、遠藤新が設計して、1928年に神奈川県の葉山町に竣工した住宅です。
遠藤新は、アメリカ人建築家、フランクロイドライトの弟子として、帝国ホテルを完成させた人です。
因みに、ライトはこの時、建築費オーバーを理由に完成を見ることなく解雇され、帰国してしまいました。

この秋から、この昭和3年生まれの、築84年になる「加地邸」の建物を会場として、展覧会「加地邸をひらく-継承をめざして」が開催されています。
ここは、師匠であるF.L.ライトに習い、建築家、遠藤新が、建築、照明器具から家具に至るまで総合的に手掛けた別荘建築です。

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周辺には建築家、吉田五十八設計の山口蓬春記念館や、神奈川県立近代美術館葉山など、建築の見所が多い場所です。
また、相模湾を望む海辺の散歩が楽しめる場所なので、一日過ごしに出かけるのがお勧めです。

棟上げ

20141017-1.JPG20141017-2.JPG20141017-3.JPG抜けるような青空。
今日は軽井沢の現場で棟上げに立ち会ってきた。
棟上げの日、それは大工さんたちの晴れ舞台だ。
こんな素晴らしい舞台を観ない手はない。
高所で手際よく作業する大工さんたちは、頼もしく、かっこ良い。

この住宅、木造平屋のシンプルな建物なのだけど、骨組みを組み上げるには至難の技を要求する。
最初のグラグラの段階で最も高い地点をグルリと一周鉢巻を形成してから組みおろしてくる。
すると、内部の三つの空洞が作用しあって、最後に全体が固まるような形態になっている。
頂部には三つの空洞に光を注ぐための大きな穴があいている。

完成すると今日のような青空を家のそれぞれの場所から見上げる住宅となる。

Goodbye Picasso

20141016.jpgアメリカ、ライフ誌の契約カメラマンだった「デビッド・ダグラス・ダンカン」が撮った「Goodbye Picasso」という写真集がある。
ダンカンはアフガニスタンでの取材活動が特に有名だ。
また、日本のレンズ(カメラ)メーカーである、ニコンとの関わりも深い。
もっというと、1956年、ガルウィングの新型ロードスター、メルセデス300SLをその撮影と引き換えに所有し、取材にはその車で乗り付けるという、まるで007、ジェームズ・ボンドのような格好良さである。
実際、彼には当時のニクソン大統領に対して米国へのピカソ招聘をアレンジするなどかなり政治的な顔もある。
僕はピカソが晩年移り住んだ南仏での暮らしを知りたくてこの写真集を手に取った。

ピカソは、パリを離れたのち、カンヌ近郊の「ラ・カリフォルニー」Villa La Californieに1957年から1959年まで暮らし、その後、エクス・アン・プロヴァンスの郊外にある「シャトー・ド・ヴォーヴナルグ」に1959年から暮らした。

この写真集では、ピカソの住まいに自由に入ることを許されていたダンカンが、ピカソとそのファミリーの素顔を思いのままに撮っている。
茶目っ気たっぷりの実に微笑ましい画家の暮らしぶり(インテリア)
が伝わってくる一冊なのだ。

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