桑原聡建築研究所

Satoshi Kuwahara Architectural Studio

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旅のアーカイブ

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旅 [ 75 entry ]

南イタリア12

マテーラ
Matera

20141026-1.jpegこの街は地形的に台地が渓谷に向かって浸食されて崖を形成していて、この崖に洞窟を掘って暮らし始めたのが都市の起源となるためにその崖の裾野から台地の高地に向かって等高線に沿って拡張していました。
しかしながら、結果的にあとからできた山頂部に繁栄をとってかわられたために裾野の位置の調整が衰退の時代に行なわれたのです。
マテーラでは多くのサッシ(岩窟住宅)が衰退時期に捨てられたと見えます
これは山岳都市の基本構成の真逆です。

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実は、この街で特徴的な三層構成、つまり、岩窟住宅、組積住宅、山頂住宅は貧富の格差そのものなのです。もともと開拓民は岩窟に住み始め、徐々に上に拡張してやがて支配階級は山頂に屋敷を建てたのです。
しかしながら、貧しい農民は不衛生な岩窟に住まざるを得ませんでした。
さらに近代社会に入って、山頂の背後の土地、台地上のソーシャルアパートに農民は移住させられたので、岩窟は倉庫や家畜の居場所になりました。
更に遺体安置所になって放置されて今日に至ったのだそうです。

いま僕たちがサッシの住宅として好んで泊まっているのも、ちょっと前までは人骨や衣類などのボロキレの捨て場だったそうです。
今、これらは全て世界遺産となり、ホテルやレストランとして蘇っています。
ここには、美しい岩窟教会が幾つもあり、湿度のせいか中世のフレスコ画が多数現存しています。

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ところで、アルベロベッロのトゥルーリもそうでしたけど、どれもさらに下があって、雨水を貯める構造になっています。
それは都市住宅でも一緒で、オストゥニで泊まったアパートも、レッチェで泊まったパラッツォも、地下に通じる井戸が上階からダムウェーターみたいに通じていました。
ここマテーラも当然そうなっています。

岩窟の中は奥に行くに従い、また、下におりるに従い、ひんやりしていきます。
ワインセラーと同じく一年中一定温度ということなのです。
しかし、一方でどうしても湿気処理の問題は発生します。
この場所は、気候的には湿気の少ない場所だから成り立つのですが、日本では考えられないですね。
因みにマテーラで泊まった部屋では、1日あたり5リットル以上は除湿出来ていました。
除湿器の無かった時代にはそれでもつらかったとおもいます。

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南イタリア10

オトラント
Otranto

20141007-1.jpeg20141007-2.jpeg20141007-3.jpeg20141007-4.jpeg久しぶりに南イタリアのお話。
今回の旅で訪れた最南端の街です。
アドリア海に突き出した小さな街ですが、とても美しくのどかな街です。
それは、街の散策中に出会う海の澄んだ青さ、ライムストーンのクリーム色の明るい色合い、青い空、がそうした気分にさせてくれます。

この街で僕は重大な過ちをしました。
大聖堂舖床モザイクを見落としてしまったのです。

この日僕たちは海遊びを兼ねてレッチェからオトラントへ出掛けたのですが、旧市街を散策中においしそうなシーフードのお店に吸い寄せられ、ついつい長居をしてしまいました。
食事が終わってお会計をしたときは既に午後の4時を回る頃。
お店のお客さんは我々を入れて残り2組。

もう満腹で何もする気が起こりません。
そこで、昼休み中のショーウィンドーで見かけて気になっていた陶器をゲットしてそのままレッチェの宿にUターン。

大事なことはすっかり忘れていました。
いつかまた来ましょう。

ここからやっとUターン。
まだまだ続きます。

南イタリア9

レッチェ
Lecce

20140924-1.JPG20140924-2.JPG20140924-3.JPG南イタリアの地盤は全てトゥフォと呼ばれる凝灰岩ライムストーンに覆われています。
掘れば出てくるこの材料でイタリアの建築のほとんど全てが出来ています。
建築ばかりでなく道路の敷石もこの材料でできています。
掘り出したばかりの湿度を帯びたこの石はポーラスで柔らかく、加工し易いですが、湿気が抜けると硬化する性質があるようです。
そのため、高価で精度の高い装飾は大理石を用いますが、建築のフレームや外部の装飾は全てこの石によって出来ています。

ここレッチェはバロック建築の宝庫と言われる街です。
もう、それはそれはすばらしく、優美な街並があります。
また、大きな街なのでショッピングも食事も広場での過ごし方もどれも楽しいです。

また、歴史の上に歴史が上塗りされているため、建築の基礎から下はどこを掘っても遺跡が出てくるような都市です。
ここレッチェで訪れたある住宅では地下に穴を掘削しただけの中世以前の水亀が雨水の暗渠と共にそのまま残っていて、上階から釣瓶で水汲み出来るようになっていました。
それらの水は大都市部ではすでに枯れているようですが、小都市の方ではまだ生きているようです。
やはりここでも痛感するのが、水の確保と道の作られ方の法則性が集住計画の鍵ということなのです。

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ところで、この街への到着が大幅に遅れた僕たちでしたが、旧市街のど真ん中にあるパラッツォを改修した宿を迷いながらもなんとか見つけて辿り着いたときは待ち合わせ時間の2時間後。
管理人は慌てふためいていて、君たちは日本人だから時間に正確だと思って、迎えにいくほかのお客を待たせて待っていた〜んだよ〜!
な〜んでこんなに遅れてきた〜んだよ〜!と、怒っているのか、困っているのか、苦笑いしているのか分からない顔で、彼。
ごめ〜んごめ〜ん。と、笑顔で僕。
もう、「イタリア時間」は過去の話。
今は南でもかなりきっちりしていました。

南イタリア8

チステルニーノ
Cisternino

20140918-1.jpegこの丘陵都市は、極めて小さなスケールの旧市街が特徴的です。
城門からして小さくかわいらしいのです。
これらはまるで住宅の玄関のようなサイズです。
なんと、公共空間でありながらそこには暖炉まであります。
元は住宅のサロンだった場所が、その後の必要性により城門化されたのかもしれません。
それらは、住宅の一部分と都市が噛み合う大変興味深い場所です。
また、あちらこちらで見かけるのが、踊り場なのかテラスなのかよくわからないような小さな外部空間です。
そうしたちいさな外部空間が、路地に挿入され、重層しています。
そして、こんな小さなスペースであっても、鉢植えを置いてチェアや小さなテーブルを置いて楽しむことを忘れてはいません。

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ここは『街並みの美学』(岩波書店)で都市景観を論じた、建築家 芦原義信が絶賛し、家族を連れて度々通った都市だったといいます。

さて、僕たちは次の滞在都市、レッチェに向かう途中にここに立ち寄っていたことをすっかり忘れてしまいました。
時計を見ると、なんと宿の管理人と待ち合わせをした時間をとっくに過ぎているではありませんか。
まあ、しかし、「イタリア時間」という言葉が昔からあるように、大丈夫。
人生の、いやこの歴史の中の数時間、たいしたことではありません。
僕たちはこの街でとても良い時間を過ごせたのですから。

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南イタリア7

オストゥニ
Ostuni

20140916-1.JPG20140916-2.JPG20140916-3.JPG今更ながら南イタリアには、高密集住の全ての要素があると思いました。
特にここ、オストゥニは素晴らしかったです。
我々は道があって動線を考えて行きますが、ここではまずボリュームがあって、その隙間が道であり動線であるという基本が違います。
集住の基本は、隙間をどれだけ豊かにするかということなのです。
で、その隙間は、直交座標系の幾何学から外れていくからこそ境界が曖昧になり、そこに暮らしがはみ出すことによって豊かさが生じます。
その隙間に個別性が生じるからです。
この豊かさを見ると、僕は今すぐ幾何学を放棄したくなります。

この街は、山頂の大聖堂を中心に、小さな隙間を作りながら環状に拡張してゆきます。
これは山岳都市の基本構成です。
そこでは、裾野の位置の調整で、繁栄の時代と衰退の時代とが交互に現れても対応できていました。
オストゥニでは多くのイタリアの都市と同様に、18から19世紀に隣接して新市街を建設したことにより移住が促進されて、旧市街は一度完全に衰退しているのです。

街に入ると、縦の隙間に挿入された階段と等高線に沿う横の隙間が組み合わされて上へ上へと、あみだくじのようにジグザグに昇る道ができています。
そして、縦と横が噛み合うところに水場があります。
ただし、水道の普及とともに現在は大半が壊れています。

この狭い路地に、三輪自動車の八百屋さんが店開きしていました。
お年寄りが、買い物をしにきたのかおしゃべりをしにきたのか。
これもバリアフリーの一つの解釈です。

ところで、ここまでくるとアドリア海がすぐそこに見えています。
南イタリアの午後はとても暑いので、そろそろ水浴びがしたくなりました。
ランチに選んだのが、アドリア海に面したホテルのレストラン。
ホテルなら車を停めていても安全です。
水着の上にシャツを着てホテルに向かい、食事のあと、さっそく海へ。
下の娘はアドリア海で海初体験を迎えることになりました。

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焼額山山頂の稚児池

20140915.JPG冬になるとスキーヤーで賑わう標高2040mの焼額山山頂が実はこんなに美しい池だってことはあまり知られていないかもしれません。
僕はかつて幼い長女を連れてここに来た時に、晩秋の黄金色の陽射しを受けてキラキラ輝く水面が木立の間から見えた瞬間、ここは楽園だな、と、ここのランドスケープが忘れられない風景のひとつになりました。
その日、山頂には僕たちだけだったので、遠くに後立山を望むこの雲上の楽園を独り占めして堪能したのです。
今日は何人かのオバさまたちが、おしゃべりをしていたので、ちょっと残念だったけど、とても良い時間を過ごしました。

さて連休最終日です。渋滞を避けてゆっくりしてから東京に帰ります。

岩菅山

岩菅山
20140914.JPG標高2,295mのこの山は穏やかな湿原のハイキングルートが多い志賀高原のなかでは気持ち良い稜線歩きが手軽に味わえる山だ。
僕たちは毎年ここに登りにやってきて、山頂の祠にお参りしている。
今日は下の娘が初参加。

山はもう秋の風が吹いています。
麓の森ではブナもダケカンバもヤマザクラも葉っぱが黄色く色づき始めていました。
気温はだいたい10度くらい。
夏の間はブヨとハエにたかられるこの稜線も、この季節はいたって快適です。
少し肌寒い風が快適で、元気に登ってきました。

南イタリア6

マルティーナ・フランカ
Martina Franca

20140911-1.jpgロコロトンドが丸い、と書きましたが、やっぱりこの街も丸いのです。
オストゥニも丸いし。
だから、丸いからロコロトンド、というのは、わかったようなわからないような説明なのではないのでしょうか?

実はこれらの都市に大きな違いはありません。
白くて、密集していて、路地に対して階段がにょきにょきしていて、フライイングバットレスで支え合って、妻面の切妻やボールトを見せてと、考えてみれば同じボキャブラリーです。

でも、僕は相当興奮しています。
つまり、よっぽど僕が単細胞なのかもしれません。
しかし、それでもどこか違いがあるのです。
生活の空気感とか、食堂の賑わいとか、広場に集まる人々の表情とか。

ここ、マルティーナ・フランカは僕としてはとても気に入った街です。
僅かな起伏の中に先の見えない迷路が続いています。
旧市街の大きさも小さすぎず大きすぎず。

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この街は人口5万人と、僕たちが今回訪れた街の規模としては中くらいと言うところでしょうか。
それだけに迷路性は高まり、路地歩きの楽しさはよりいっそう高まります。

ちなみにナポリは100万人ですが、アルベロベッロは1万人、ロコロトンドは1万4千人、これからまわるオストゥニは3万3千人、チステルニーノは1万2千人、レッチェが9万人、オートラントで5千人、ターラントが20万人、マテーラ6万人、プローチダ1万人、となっています。

ところで、この街では毎年夏に「ヴァッレ・ディトリア音楽祭」が開催され、各地からの観光客で賑わいます。
音楽にちなんでこの街を取り囲む通りには、
1813年エミリア=ロマーニャ州パルマ県ブッセート生まれの「ジュゼッペ・ヴェルディ」、
1795年バーリ近郊アルタムーラ生まれの「サヴェリオ・メルカダンテ」、
1792年マルケ州ペーザロ生まれの「ジョアキーノ・ロッシーニ」、
1797年ベルガモ生まれの「ガエターノ・ドニゼッティ」、
1710年マルケ州イェージ生まれの「ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ」、
1801年シチリア島・カターニア生れの「ヴィンチェンツォ・ベッリーニ」
の名が付けられていました。

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