桑原聡建築研究所

Satoshi Kuwahara Architectural Studio

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日々のこと [ 67 entry ]

「さどのもん」「たびのもん」

これは生粋の佐渡生まれ佐渡育ちの人と他の土地から移り住んで来た人とを区別する呼び方でそうです。
今でも習慣的にそのように使われているのだそうです。
しかし、これはけっして差別用語などではなく、平等に佐渡の住民として尊重した上でそのように呼び分けているのだそうです。
やはり、その歴史上、流刑者によってもたらされた豊かな文化伝統が根っこにある島だからなのでしょうか。とても興味深い習慣です。

現在佐渡市議を務める室岡ヒロシくんの修士論文調査によると「さどのもんは高校卒業後 に島を離れる場合が多いが、対象者は平均29歳で帰島したという結果となった。大学・就職を含めて10年ほどを島外で過ごす傾向があると言える。また、たびのもんは平均32歳で移住しており、決してリタイア後の余暇を過ごす場所としての移住ではないことが分かった。 職業に関しては、さどのもんは家業を継いでいる場合が8事例と多く、たびのもんに関してはNPOスタッフや自営業を営んでいる傾向にあることが分かった。 佐渡在住暦(佐渡暦)に関しては、さどのもんの平均が38 年、たびのもんの平均が9年という結果となり、年数としては 4倍以上の開きがあることが分かった。」とあります。調査対象の母数がかなり少ないような気もしますが島で実感した感じも大凡その通りかと思いました。

いま、あちこちの自治体で移住促進の動きが同時多発的に加速している様子は僕のブログでも取り上げて来ました。
しかしやはり移住への不安は、受け入れる側、受け入れられる側、双方に根強くあります。
そこで、よそ者は、自分の強みとか魅力、得意技を持っていくのだけれど、しかし、それを頑なに通すのではなく、土地に合わせて変化融合させる柔軟性が必要なのだと歴史的にも気付かされます。

いま僕に縁のあるあちこちの離島や山間僻地で出会う方々は殆どがよそ者です。彼らはみな「自分の得意技」あるいは「よそ者でないとできない視点」によって暮らしを立てています。そして、よそ者マインドを持ったよそ者の心がわかる方々によって支えられています。

しかし、移住者と話をしていて気付かされるのは、みなさんけっして永住目的というわけではなく、他にも自分に合った環境があればさらに移住してもよいと考える柔軟さがあります。彼らはそうして回遊していくものなのだと思います。ですから、結果として移住者が求めるクオリティの高い移住者空き家が移住ネットワークの中で再活用されて、さらにクオリティを求める移住者を呼び込む、「移住トルネード」と呼べるような現象がおこることを期待したいと思っています。

先週末は佐渡を再訪してきました。今回は宿根木集落の元船大工の家「孫四郎」で暮らしながら、畑野地区まで流鏑馬や鬼太鼓を見に行ったり、山奥の小さな猿八集落ですごいパンを焼き上げているパン屋さん「ぽっぽ」を訪ねたり、金井地区の古民家で暮らす二拠点移住者のお宅を見せていただいたり、平清水地区の広大な自宅の庭でワイナリーを計画されている方の家を訪ねたりしました。みなさんとても明るく積極的に、仕事や暮らし、そして人との交流を楽しんでいる様子が伝わってきました。

20161018-1.jpg20161018-2.jpg20161018-3.jpg20161018-4.jpg20161018-7.jpg20161018-5.jpg20161018-6.JPG

まだまだ奥の深い佐渡。僕の見たのは大きな佐渡のまだほんの一部です。知り合ったみなさんから「また来てね~」と言われ、ついついまた次の旅程をスケジュール帳とにらめっこしながら調整する日々が始まりました。

離島の課題

二年前のブログで『ハッピー・リトル・アイランド 』 という映画について書きました。
今年は実に私自身、離島によって癒され、離島によって考えさせられました。
そして日本の離島の状況も『ハッピー・リトル・アイランド 』に描かれていることと同じ、ということを知りました。

20161008-1.jpg

離島の課題、それは言うまでもなく人口減、人口流出です。
高齢化による自然減は仕方ないとして、子育て世帯の流出、或いは子の進学、就職による流出をどうやって抑制し、今後転入による増加に転換させていくか、が、ここでの課題となります。

課題解決の目標として筆頭に挙げられるのが教育への不安の解消です。
小学校までは良いのです。そこでは小規模校ならでは、の特色ある教育が実現されています。むしろ都会では望めない、のびのびとした環境がとても魅力的です。ところが、中学校、高校へと進学する時期になると、競争原理のはたらかない環境により不安の時期が来るようです。また教育を後押しするための周囲の経済力の低さも根深かく関わりあっているようです。もっとも移住して欲しい子育て世代が不安を感じるのはココです。

教育水準の問題は高学歴人口率との相関関係が世帯収入との相関関係を上回るという調査結果がでています。
さらに、東京では学力レベルが突発的にグンと上がる地域があるのですが、この背景には大規模高額マンションによる高学歴人口の大量流入があります。

しかし東京の場合も、結果的には中学校、高校へはかなりの数が区外の私立へと流出します。
つまり、教育への不安を取り去ったところでやはり島の外に出ていく動きは避けることができないといえるでしょう。
だからこそ、その後も親世帯は残留し、いったん島の外に出た子が戻って来られる環境を作るべきなのです。

そのためには、地域のアドバンテージを認識し、共感し、それを活かした賢い生き方の選択肢を幼時から理解し、発見し、共有する取り組みと、地域を離れずに生涯暮らし続けていける環境づくりが必要なのです。
一方、食の安心、安全、環境重視のライフスタイル等、離島のアドバンテージについて、むしろ高学歴世帯の理解が高いと読むことができます。
つまり、環境づくりのキーとして「高学歴住民を核としたネットワーク」と、それを実現するために地域の資源となる、高学歴人口の保護と流入をどのように後押し優遇するかがポイントになるように思います。

このまま日本の島々が居住放棄地となり続けていったとしたら、不法移民、不法占拠など、治安への不安が極めて深刻化する時がやって来るでしょう。
僕はこれまで離島の問題を地域振興、観光の問題と考えて来たところがありましたが、これはほんの入り口の部分に過ぎなかったことがなんとなくわかってきました。離島に人が住み続けられるように環境を整えることは、「争いを伴わない大切な防衛手段の一つである」ということがことの本質なのではないかと思い始めているのです。
このことは、佐渡で北に向けられたレーダー基地を見たときに感じた違和感から強く確信しました。
確かに五島列島の福江島北部にも自衛隊の管理地がありました。なんでこんなところに?と思ったけれど、最初はスルーしていました。
考え過ぎでしょうか?

僕は政治的な話は得意ではないので、これ以上はやめておきましょう。

さて、今年は小値賀島、野崎島、福江島、久賀島、そして佐渡ヶ島と、5島を巡りました。
すべての島で見えてくるのは、全く同じ課題に同時的に取り組む様子が見られることです。
これはとてももったいないことです。
今こそ全ての離島が一致団結して同じ目標に向かって進む時なのではないかと思います。
また、先ほど環境づくりのキーは「高学歴住民を核としたネットワーク」ではないかと申し上げましたが、高学歴住民は、永住させようとするとどうしても無理が生じます。渡り鳥のように定住せずに次々と居住環境を変えて行くライフスタイルを認めてあげなければいけません。
ですから、ここで「離島ネットワーク」が重要になるのではないかと思うのです。
離島ネットワーク内で人を循環させ、育てる取り組みです。
そのために国の予算を使うなら誰もクレームはつけないこととおもいます。

ここまで建築については何も語ってきませんでした。
しかし、人が集まれば文化(カルチャー)が生まれます。カルチャーが生まれれば自然に建築文化が生まれます。つまり、人が建築を生み出し育むのですから、先ず人が集まり交わることが重要なのです。

今年最後の離島行きは来月、鹿児島県の徳之島を予定しています。徳之島三町のうちのひとつ、伊仙町の大久保町長さんをはじめ、役場の方々との交わりも予定されています。
今年の夏前には、たまたま海外渡航の代わりとして思いついたツーリズムとしての離島巡りでしたが、最後は地域活性という大きな課題に辿り着きました。

徳之島訪問、今からとても楽しみです。


PS
ところで、こんなコラムを書いていたらこんな記事を見つけました。

政府は5日、国境にある有人離島を保全するため、住民の生活支援を話し合う有識者会議を開いた。政府は2017年度に有人離島を支援するため約50億円の交付金を創設し、島への往来にかかる運賃や、特産品などの輸送費の引き下げにつなげる方針を説明。会議の議論を踏まえ、政府は来年春にも有人離島保全の基本方針をまとめる。 2016/10/5 20:39 日本経済新聞電子版

ここで「国境にある有人離島」と限定されているところ、予感が的中していました。
もっとも、防衛予算約5兆円に対して50億ですからほんの僅か0.1%なのですね。

佐渡島

佐渡島は沖縄本島に次ぐ大きさを持つ離島で、その予想外の広さに驚かされます。
北端から南端までおよそ80キロ、約2時間の道のりです。

なかでも佐渡金山によって繁栄した相川の町はよく知られています。
また、島には、30を超える能舞台があり、それらのほとんどが神社の境内にあります。現在でも神事として頻繁に使われており、年間20回ほど、能が奉納されています。
古代には政治犯の流罪の地として、知られました。佐渡に流されたのは順徳上皇をはじめ、皇族、貴族、僧侶や文化人など政治犯です。その中には、世阿弥も含まれていました。
そして、千石船による廻船業の基地として栄えた、小木を中心とした港町。これは高密居住集落のお手本のような町です。

佐渡は大きく分けて北に大佐渡、南に小佐渡の2列の山脈と、これらにはさまれた国仲平野の3つに分けられます。国仲平野は両津湾から真野湾にかけての広大な穀倉地帯です。

自ずと佐渡の文化も三列構成で、中央からの流人の影響で形成された「国仲」の公家文化、金山直轄地「相川」の武家文化、廻船港「小木」の町人文化、の三つに大別されてきました。

さて、僕の今回の佐渡行きの目的ですが、それは、①この春に「三度の飯より佐渡が好き」をキャッチコピーにめでたく佐渡市議となった理科大初見研究室の後輩、室岡啓君に会いに行くこと、②彼が時折フェースブックにアップしてくれる素晴らしい岩首の棚田を一度、肉眼で見てみたいと思ったこと、③小木に近い宿根木の集落を見ること、④相川の佐渡金山の産業遺跡を見ること、そして⑤近い将来の夏のディスティネーションとしての海岸線のリサーチ、この五つです。

今回は僕にしては珍しく雨に祟られ、二泊三日すべて雨でした。
それでもポンチョをかぶり歩き回りました。

相川の佐渡金山はもちろん素晴らしかったのですが、やはりここは宿根木の集落がまだ現役の町として生きている場所だけに素晴らしかったです。

20161007-1.JPG20161007-2.JPG20161007-3.JPG宿根木は、江戸時代中頃から明治にかけて、廻船業の基地として栄えた町です。
当時の廻船航路は、北は日本海経由で北海道、南は日本海、瀬戸内海と繋ぎ、大阪へ、その後太平洋経由で江戸へと繋がっていました。
その目的は単に物を運搬することではなく、長い航海の間に多くの港に立ち寄りながら、その港々での品物の価格差を利用して利益を出すシステムであったとのことです。
最盛期、宿根木には120世帯500人ほどが集住し、十人余りの船主のほか、船員や船大工らが居住していたそうです。そのほか、関連する様々な職種が集まり、さらに造船基地としても発展したことで、今見られる高密な町並みを形成してきたようです。岩礁が点々とある小さな入り江に作られた港からはなかなか想像がつきませんが、その小ささがとてもすてきな佇まいをいまに残しているのです。
幸い今もなお、約60世帯180人が暮らす半農半漁の生きた集落であり続けています。

宿根木は重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
ここには約1ヘクタールの土地に110棟の建造物が高密度に配置されています。
どの家屋も「世捨て小路」と呼ばれる細い路地に接しています。小路の大半はそのまま歩くと自然に海に向かい、大浜と呼ばれる広場に繋がるようになっています。ここは、大浜がかつて千石船の荷揚げ場、造船場であり、遠く北海道や大阪へ通じる玄関口としての広場であったからです。

建造物には、主屋、別棟の納屋、土蔵すべてに同じ「サヤ」と呼ばれる杉板による竪羽目板張りが統一して施されているので、外観からはそれぞれの区別がつきません。だからもちろん、廻船主の豪邸も船大工の家も外観からは見分けがつかないのです。また、総二階建てとはいえ、その軒高はかなり低く抑えられていて、高密集住のスケール感として程よい親密さを感じさせています。マッチ箱を重ねて行ったように小さく分節されたブロックと屋根の作る集合形態が実に自然発生的であり、また美しく、魅力的なのです。
ところが一歩家の中へはいると、土間が広くとられ、それに続く「オマエ」とよばれる居間では、イロリを中心とした二層吹き抜けの空間が展開します。
また、廻船主の豪邸となると、内部の木部には天井板にまで漆をふんだんに使うなど、実に贅沢で豪華な造りとなっています。豪華な一方、オマエの奥、二段の敷居をまたいだ「納戸」とよばれる寝床は脚が伸びきらないくらいの窮屈な空間なのですが、家族全員が川の字になって寝たと言います。それはなんだかとっても微笑ましい空間でした。

現在、この集落には一棟丸ごと借りることができる家屋が二軒あります。
次に来る時はぜひ泊まりに来ようと思っています。
もう一つ、たらい船に乗る時間がなかったことを僕よりむしろ娘が残念がっておりました。

さて、この宿根木から海岸線に沿って30キロほど走ったあたりに岩首の集落があります。この集落も67世帯140人が暮らす半農半漁の生きた集落です。そして海に面した集落から背後の山に向かって約2キロ、標高300mの斜面に向かって広大な棚田が広がっています。
この棚田の上部から海を遠望したアングルに僕は魅せられて、この場所までロケハンに来てみたい、と思ったのです。

20161007-4.JPG今回は雨で視界も悪く、棚田は次回に譲ることとなりましたが、幸いこの日、岩首集落のお祭りの日と重なりました。僕たちもお祭りに混ぜていただき、集落の民家に上がり、オマエからお祭りを見学させていただくことになりました。
岩首のお祭りはなんと年間14回も行なわれているそうです。
今回のお祭りは熊野神社大祭です。

赤鬼青鬼、そして笛太鼓が行列しながら各家屋を一軒一軒、門付けして回ります。朝から晩まで延々と続けられているそうで、僕たちが夕方たどり着いた頃には皆さん相当お酒が回っているようでした。この日、どの家もオマエ(二層吹き抜けの囲炉裏の居間)が開け放たれ、内にはご馳走が並べられています。お酒も次々に注がれています。鬼太鼓がやってくると各家からお花代が手渡されます。それを一つ一つ、「ろうそ」と呼ばれる仕切り役のひとが数字の桁を誇張しながら面白おかしく読み上げます。そして、一つ読み上げるごとに踊り手を指名します。ですから、ご主人、奥さん、おじいさん、おばあさんから4袋出れば4回の舞いと太鼓を披露することになります。実にゆったりゆったり進んでいくのです。

20161007-5.jpgこうした生きた風習、習慣を見ると、ひとけのない日常の集落の静かな風景とは違って実に活き活きとしていて、大きな魅力を感じます。
これらは決してテーマパークや伝承博物館では味わえない生きた体験です。
アイランドツーリズムはかくあるべき、というお手本を見せて頂きました。
この岩首集落には棚田のスペシャリスト、「棚田おじさん」がいらっしゃいますし、
この春から一軒の民家をなおしながら、シェアハウスを立ち上げた地域おこし協力隊の若手のかたもいらっしゃいます。
いま佐渡で一番熱い地域なのではないかと思いました。
また再訪できるときにゆっくりお話を伺いたいと、集落を後にしました。

20161007-6.JPG

ということで二泊三日では到底語れない懐の大きさを誇る佐渡島です。
東京からも四時間ほどで行ける場所ですので、是非次のディスティネーションに加えてみることをお勧めします。


佐渡島データ
面積 854.49 km2 人口 5万8,047人

特産品
お米、しいたけ、おけさ柿、洋梨、イチジク、佐渡牛、甘エビ、ずわい蟹、イカ、ブリ、真牡蠣、酒、いごねり、沢根団子、ブリカツ丼

野崎島

20161006-1.jpg20161006-2.JPG20161006-3.JPG20161006-4.JPG20161006-5.JPG20161006-6.JPG「野崎島」は小値賀島の東2キロに位置する無人島です。
無人島と言っても結構大きく、南北約6.5キロメートル、東西約2キロメートル、面積7.36平方キロメートルあります。
かつては野崎・野首・舟森の三集落があり、1950年代には650人前後の人々が暮らしていたそうです。
人が住まなくなった島内には、現在、野生のニホンジカ400頭以上が生息しています。
コバルトブルーの野首海岸を見下ろす絶景の地には、廃校となった小値賀小中学校野崎分校があり、ここを、簡易宿泊施設として利用することができるようになっています。

この島の中央に位置する「野首集落」は潜伏キリシタンが移り住んだ集落で、野崎島にかつてあった野崎、野首、舟森、3つの集落のうち、「舟森集落」と共に信仰が深かった地域とされています。
旧野首教会は、この集落に住む17世帯の信者たちが貧しい暮らしを続け、力を合わせて費用を捻出し、鉄川与助の設計施工により、1908年(明治41年)10月に完成させたというレンガづくりの教会です。
建設費を捻出するために信者達は共同生活を始め、大人は1日2食と生活を切り詰め、キビナゴ漁などで資金を蓄えたと言い伝えられています。

しかし、高度成長時代の流れとともに、野崎島の人口流出は進みました。
島の南端にあった舟森集落は、戦後34世帯が暮らす集落でしたが、1965年(昭和40年)には13世帯までに減り、翌年1966年(昭和41年)に最後の住民45人が小値賀島に集団離村し、無人の地になりました。
野首集落は、戦後28世帯171人が暮らしていましたが、1970年(昭和45年)には6世帯28人となり、翌年1971年(昭和46年)には最後の6家族が島を離れたことで廃村となりました。

舟森集落までは山道を歩いて約二時間。
森のなかから野生の鹿が出てきて横切っていったり、野生のイノシシと遭遇するワイルドな道です。
この一本道は、この島の集落と集落を結ぶ唯一の陸の道です。
そうして辿り着いた棚状の畑の石積みが残るかつての集落は、やはり絶景の土地でした。
ここでもやはり先端の海岸でひと泳ぎして汗を流そうと海岸まで降りて行きました。
ところが、イノシシの先客がおりましたのでしばらく待って姿が見えなくなるまで順番待ちをしました。
このイノシシ、もともとこの島にはいなかったのですが、海を群れで泳いで渡ってくるのだそうです。
害獣ではありますが、泳いでわたってくる姿を想像するとちょっとユーモラスな感じがしますけれどね。

ここから対岸の上五島、中通島、新上五島町は目と鼻の先です。
しかし、この海峡は潮の流れがとてつもなく速く、万が一流されたら大変危険です。
ですので、ここでは水浴び程度にとどめました。


野崎島 面積7.36 km2 人口0人

久賀島

久賀(ひさか)島は、下五島の中心である福江島の北に位置しています。
人口僅か400人の島ですが、面積は37.35m2と意外に広く、豊かな耕作面積を持つと同時に、入り江が島の中心部まで深く入り込み、漁業も豊かに共存しており、半農半漁のくらしが続けられています。また、山にはいればいまも椿の原生林が多く残っています。一方、車がないと移動はかなり大変です。

この島には商店も食堂もありません。
一軒だけ営業している民宿がたよりです。
ここでも僕たちは水着の上にTシャツを着て、宿で用意してもらったお弁当を持って出掛けます。

20161005-1.JPG20161005-2.JPG20161005-3.JPG20161005-4.JPG旧五輪教会は1881年に浜脇教会として建設された木造協会で、1931年に五輪教会として現在の場所、島の南東側に移築されました。
ここに行くには車一台通れるだけの細い山道をひたすら進んで行きます。それでも道路は途中で行き止まりになってしまいますので、車を停めてから30分程歩いて行きます。
山道を入り江に向かって下降するあたりから教会が美しく見えてきます。
満潮の時刻は特に美しく、その穏やかな佇まいは実に感動的でした。

内部は船大工の手になると思われるリブ・ヴォールト天井が美しい教会です。
現在、世界遺産登録に向けて長崎県により整備されています。

来た道を少し戻って脇道に入りひと登りすると、入り江に反射した太陽光線がキラキラする場所に出ます。そこが墓地になっていました。

さて、暑くてたまらなくなってきました。今度は海に飛び込む場所を探して移動します。教会の前の入り江も捨てがたいのですがここはやはり遠慮して他にいくことにします。

素晴らしい入り江を求めて島の西北端に向かいました。
岩場を歩きながら海中を注意深くチェックします。
盆を過ぎたこの時期、イラと呼ばれる脚の長いクラゲが出始めています。
しかしこのイラ、体がほぼ透明で上からではほとんど見分けがつきません。
しかし刺されたら厄介な毒をもっています。
魚がうじゃうじゃいる場所を狙って海に入りましたが僅か5メートルも行ったところでイラと遭遇。慌てて岸に引き返しました。

監視員のいるビーチと違ってここには人もいないどころか人家もありません。
そこにあるのは自然のままの海です。
もしものことがあった場合のことを考えるとすべて自己責任ですから用心するに越したことはありません。

久賀島 面積37.35km2 人口395人

特産品
久賀島の棚田米 久賀島産100%つばき油

福江島

五島列島は佐世保寄りの北東部から南西方向におよそ80kmにわたり、大小あわせて152の島々が連なっています。
なかでも最大の島、福江島は、列島の南西端にあります。
五島列島は行政区分から言うと北から順に佐世保市、小値賀町、新上五島町、西海市、そして五島市の5つで構成されています。
11の有人島と52の無人島からなる五島市全体で人口約40,000人。
そのうち約36,000人がこの福江島に住んでいます。

20161004-1.JPG20161004-3.JPG20161004-5.JPG20161004-6.JPG20161004-7.JPG20161004-12.jpg夏休み、盆前に二度にわたり訪れた小値賀島での熱が冷めないうちにこの福江島に行ってみたくなりました。
実はこの福江島、事前のGoogleマップスタディでめちゃくちゃ面白いことに気づきました。
それは畑の形です。
島の西北部の三井楽地区、南部の富江地区、ともに、空から見ると無数の泡かゾウリムシのような形の畑か田圃が連なっています。
これもおそらく牛に起因するのではないかと牛耕を行なっている奄美諸島や、石垣島の上空もチェックしてみました。
また、他の五島の島々も見て見ましたが、やはりこれはここにしかない模様でした。
アメリカのセンターピポット式の様な大型の幾何学的な円形ではありませんからこれは耕作のゆるさ加減が産みだした造形です。
実に美しいです。
さて実際に現地を歩くとどの様になっているのでしょうか?

集落を抜けて緩やかな斜面を上って行くと天然の椿の林に囲われた農地が姿を現します。イモ畑が多数を占めています。区画によっては放棄されているものもあるようで、その場合は入り口が椿の薮に覆われています。
これを円畑(まるはた)といい、海岸線から始まって山の緩やかな斜面全体を構成しています。もともと土地に余裕のある地域ということから防風のために畑の周囲の原生の椿の林を刈り残して農地を耕したことから来ているのだそうです。
島の最北部に半島状に飛び出た三井楽地区は、特に冬の間、強風にさらされる地域だからです。
それで解けてくるのですが三井楽の民家は、皆、軒を低く低く作ってあります。どこかアイルランドの荒涼とした風景をみるようなこの三井楽の風景は、気候によって形成されていることを知るのです。
また、民家の色使いも興味深かったです。赤、青、黄色、実に鮮やかで、さらに計画しても出来ないような色の混合が見られます。これは廃屋の部材を痛んだ屋根や外壁の補修材料としてリサイクルしていることが理由のようです。

さて、私たちはこの福江島でもこの三井楽集落の元大工、今は自家用の農地での農作業と漁をしながら隠居生活を送る50代のご夫婦の家に民泊させて頂きました。また、この集落の人々も約半分はキリスト教徒です。海の絶景をバックに十字架がかかる墓地は静かで美しい場所の一つでした。

福江島データ
面積326.39 km2 人口3万6,979人

特産品
五島牛・五島うどん・きびなご一夜干し・アオリイカ一夜干し・かんころ餅・治安孝行・椿油・ばらもん凧・さんご加工品・ごと芋・焼酎・五島茶・五島つばき茶・からすみ・甘塩うに・ハコフグ

サマータイム

少し前から自転車通勤を始めた。20160621.jpg
片道約10キロの道のりは慣れれば30分で到着する。
なんと、車通勤するより早いのだ。
これまでは子供たちと一緒に朝ごはんを食べてから7時過ぎに出発して8時前に事務所に出社するようにしていた。
事務所の近所に格安で借りているガレージが8時オープンということもその理由のひとつだ。
けれども、自転車であれば時間は自由だ。
さらにこれから夏本番に向けて朝の日差しが強くなるので、出発の時間を早めることにした。
現在の日の出は4時半で、そこから1時間半以内ならまだ日差しはそれほど強くない。
だから4時に起きて、洗濯・娘の弁当・朝食・夕食の前準備を順次済ませて、5時半に出発。6時に出社と決めた。

6時に仕事を始めると、よく言われる通り、とにかく仕事がはかどる。
食卓で朝食をとる娘たちとは二人が通学するまでSkypeでつなげておく。
これで朝の会話ができるし、姉妹の喧嘩の仲裁もできる。

事務所では先ず大量に汗をかいた後の水分補給。うまい。
その後のエスプレッソもこんなに美味しいのかと再発見。
起床から8時間目となるお昼頃にはさすがに眠くなり、ウトウト。
午後もまだ日の高いうちには自転車では暑さが厳しいので、日没1時間前の5時半まで頑張って仕事する。

そして日没前のブルーモーメントは家で過ごすのだ。
昨日は小2の娘に手伝ってもらい、一緒に羊肉のオーブン焼きを拵えた。
学校で収穫してきたミニトマトも添えた。
良い1日だった。

これを僕のサマータイムとして継続採用決定。

「セビリアの理髪師」

昨日の父の日、家族でオペラを楽しみました。
オペラはだいたい年に4回くらい家族で観に行きます。
といっても、何万円もするような有名歌劇場の来日公演にではなく、お財布に優しいものに限り、です。

20160620.jpg昨日の演目は、ロッシーニのオペラ・ブッファ「セビリアの理髪師」
オペラ・ブッファは子供たちと一緒に見てもシリアスな場面がないので、とても楽しく、ペルゴレージ、チマローザ、ドニゼッティ、モーツァルトなどと並んで、これまでも何度か観てきたので、子供たちにとってもお馴染みの演目です。
音楽付喜劇ともいえる舞台は、悪を笑いにかえ、滑稽さを強調する大げさな振り付けに、客席からは思わず笑い声が加わります。
また、オペラでは裏方とも言えなくもない楽団も、ここではとても楽しいのです。
指揮者がタクトを置いてチェンバロを弾き、ギター弾きがオケピから舞台に上がり、愛のカンツォーネを伴奏します。
そして、素っ頓狂な甲高い音を奏でるピッコロ(フルート)が、楽団でも道化を予感させています。

さて、物語の主人公、アルマヴィーヴァ伯爵は、フィガロのとりなしにより、医者バルトロから資産目当ての結婚を迫られていたロジーナ嬢に猛アタック。なんと、このバルトロは、ロジーナ嬢の叔父であり、後見人なのです。しかし、エンディングではめでたくアルマヴィーヴァ伯爵はロジーナ嬢を妻に迎えます。ところが、続編となる、モーツァルトの「フィガロの結婚」では、アルマヴィーヴァ伯爵は一転、超浮気者として描かれ、当時貴族の間に横行していた「初夜権」を復活させて、フィガロの結婚相手であるスザンナ嬢をなんとかモノにしようと画策する悪者を演じます。
あのときの情熱は今何処に?今でもよくある話ですね。
そうしたことを知って観ていると、その歌、表情、振り付けの中にはそう一筋縄ではいかない、人々の心持ちや狡猾さも同時に表現しようとしているのがわかります。

笑い声の少し大きめな下の娘は、前の席のおじさんから時々睨まれていましたけどね。。。

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