桑原聡建築研究所

Satoshi Kuwahara Architectural Studio

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展覧会のアーカイブ

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展覧会 [ 47 entry ]

「牧野記念庭園」

植物学者牧野富太郎(1862‐1957)の記念館が高知県にあります。
この建物は、建築家 内藤廣氏設計の建築としてよく知られています。
太平洋を見下ろす高台の起伏に富んだ斜面地にあって、強風にさらされる過酷な自然条件に拮抗するように建つ姿が美しい建物です。
地を這うようなその姿と、ゆるく湾曲しながら鞘のように包み込まれる屋根形状は、牧野富太郎博士が種子植物やシダ植物の権威であることから、理解することも出来るでしょう。

実は、牧野富太郎は僕の実家の隣町、大泉学園町に住んでいました。

牧野富太郎は、1862(文久2)年4月24日に高知県高岡郡佐川町の造り酒屋「岸屋」の跡取りとして生まれましたが、洋学の最先端教育に嫌気がさしてしまい、不登校になります。
だから、博士の最終学歴は小学校退学、なのだそうです。
植物の知識は独学で身につけ、後に東京帝国大学理学部植物学教室へ出入りするようになり、以後、東京を拠点とします。
1925(大正15)年、大泉に居を構え、1957(昭和32)年に満94歳の生涯を終えるまで、自邸の庭を「我が植物園」としてこよなく大切にしたといいます。

ここは、1958(昭和33)年から「牧野記念庭園」として、庭園及び資料館を公開しています。
こちらも建築家 内藤廣氏の設計です。
今日は用事があって近くまで行ったので見学してきました。
保存された木造平屋7坪の書斎の外壁に「學問は底の知れざる技藝也」と書かれていたのを見てぐっときました。

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展覧会「加地邸をひらく-継承をめざして」

公開されたばかりの「加地邸」を見学してきました。

「加地邸」は、遠藤新が設計して、1928年に神奈川県の葉山町に竣工した住宅です。
遠藤新は、アメリカ人建築家、フランクロイドライトの弟子として、帝国ホテルを完成させた人です。
因みに、ライトはこの時、建築費オーバーを理由に完成を見ることなく解雇され、帰国してしまいました。

この秋から、この昭和3年生まれの、築84年になる「加地邸」の建物を会場として、展覧会「加地邸をひらく-継承をめざして」が開催されています。
ここは、師匠であるF.L.ライトに習い、建築家、遠藤新が、建築、照明器具から家具に至るまで総合的に手掛けた別荘建築です。

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周辺には建築家、吉田五十八設計の山口蓬春記念館や、神奈川県立近代美術館葉山など、建築の見所が多い場所です。
また、相模湾を望む海辺の散歩が楽しめる場所なので、一日過ごしに出かけるのがお勧めです。

吉村順三記念ギャラリー 小さな建築展「高樹町の家」 展

image.jpg吉村順三記念ギャラリー 小さな建築展「高樹町の家」 展を観てきた。

吉村順三と中村外二棟梁による和の住宅だが、南の庭を限りなく透明に取り込もうとする数々の工夫と手法が美しい。

僅か3寸五分の見込みに五枚の硝子戸を仕込む離れ技が光る。
高さ75ミリのアルミの袴に10ミリ硝子の全体重を預け、そこに戸車と防犯の金物を仕込み、さらに壁との取り合いにはマグネットを仕込む細やかさだ。

また、前川國男邸と同様にこの住宅でも雨戸は部屋内側に設けられており、カーテンウォールのような硝子の外観を引き立てている。

残念ながら今はもう取り壊されて、マンションに建て替えられているそうだ。

このギャラリーは、吉村事務所として使われていた建物で、目白駅からほど近く、隣接して徳川村と呼ばれる徳川家のお屋敷がある場所で、街歩きも楽しいエリアにある。

トマス・サラセーノ「クラウド・シティ」 展

20120616-1.jpeg銀座のメゾンエルメス8Fフォーラムで開催中のトマス・サラセーノ「クラウド・シティ」 展を観て来た。

サラセーノは1973年アルゼンチン生まれ。ブエノスアイレスで建築を学び、のちにヨーロッパに移り、フランクフルト造形美術大学で美術を学んだ。
今回の展示は会場の関係でスケールは小さく、雲のように空中に浮遊するイメージは想像力を働かせないと見えてこないが、現在メトロポリタン美術館で開催中の「クラウド・シティ」 展では五角形の多面体構造のセルが本気で空中に浮遊している。

20120616-3.jpegボリビアにウユニ塩湖というのがあってそこでは空と地表がシームレスにつながる風景を見ることができる。これが彼の浮遊するイメージの源なのだそうだ。
バックミンスター・フラーやアーキグラムの影響を受けながら空中都市にユートピアを描く。しかし手法は極めてローコストかつ現実的だ。壮大な語り口ではなくさらりとローコストで、しかも参加体験型。作り方まで図解して説明する。観客に対してはきわめてオープンかつフレンドリー。そして何よりも楽しませようとしているように見える。
会場では太陽熱だけで浮遊するポリ袋製の熱気球に乗り込み、歓声を上げてはしゃぐ作家の姿がビデオで流されている。

最後に、クモ(雲)とクモ(蜘蛛)を掛け合わせているところも心憎い。って、日本語わかってたのかな?

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伊丹潤「手の痕跡」展

昨年6月急逝された建築家 伊丹潤の「手の痕跡」展を見てきた。
現在、手描きによる住宅の第二課題に取り組む東京理科大学の2年生に向けて少し刺激になれば良いな、とも思って写真も撮ってきた。
学生時代、僕らもドローイングに対して時間と情熱を注いだ世代だ。

鉛筆描きの平面、立面、断面ドローイング。もはや図面を通り越してドローイングそのものが多くのことを語り出す。そこには寸法もテキストも不要だ。20120614-3.jpeg
これに加えて多くのスケッチが加わることで、氏の建築は立ち上がる。。。ような気がした。
内部やディテールについては異論もあろうかと思うが先ずはドローイングの迫力には感服。
そしてあとは信頼できる職人に任せる。
そんな芸術家的態度で建築をつくるのも「あり」なのだ。

再現された書斎デスク正面の壁には「一生不悟 一生感動 一生燃焼」の文字が。
デスクの上にはHBの鉛筆、三角スケール、三角形のペーパーウェートが今の今まで使われていたかのように置かれていた。

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「アンジェロ・マンジャロッティの哲学とデザイン」展

東京・九段下のイタリア文化会館 アニェッリホールで明日から始まる「アンジェロ・マンジャロッティの哲学とデザイン」展のオープニングレセプションに行ってきた。ここのところ夜の活動をさぼっていたから、人が集う場に出るのは久しぶりだ。

このレセプション、日本においてマンジャロッティのサポートを続けている「アンジェロ・マンジャロッティ・アソシエイツ」のメンバーの一人であり、理科大の恩師である奥田先生からのお誘いを受けて参加した。けれども、アンジェロ・マンジャロッティ事務所出身の日本人建築家は実は数多く、知り合いの建築家にも何人も会った。
そんなちょっとした驚きがあった一方、実はこれまで表面的には知っていると思っていた「アンジェロ・マンジャロッティ」
けれども、これまで自分の中ではそれほど響いてはいなかったらしい。
あの美しいPCの接合部のディテールは知ってはいたものの、わざわざ見に行くでもなく、反復するプレファブリケーションの形態よりもスカルパの魔術的な魅力に惹かれてきた。
しかし今日、イタリア人のルーツともいえるギリシャ、ローマ時代から続く建築のコンテンツからモリモリと湧き出てくるようなクリエーションのエネルギーを感じ、そこにスカルパのそれと同様の魅力を感じとったのだ。

それともう一つ。記念講演会「アンジェロ・マンジャロッティの哲学とデザイン」は地下のオーディトリアムで行われたのだが、ここの椅子がメチャクチャ良く出来ていることを実感した。思わず実測してスケッチに納めた。

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フィン・ユール

新宿パークタワー(OZONE)1階のギャラリー1で現在、「フィン・ユール生誕100年記念展」が開催されている。
この展示会は1月30日に生誕100年を迎えたフィン・ユールの家具デザインと自邸の建築を紹介するもの。
フィン・ユール(Finn Juhl、1912年1月30日 - 1989年5月17日)はデンマークの建築家、家具デザイナー。
アルネ・ヤコブセン、ハンス・J・ウェグナーと並んでデンマークの近代家具デザイン界を代表する。
家具を知り出すと誰もが彼が作り出す脚と一体に流れるようなフォルムを纏った肘掛けや大胆かつ繊細な構造材の仕口に魅了されるのだ。
牛骨を貫通ダボ穴に象嵌して埋木してみたり、当時まだ新素材として作られたばかりだったであろうメラミンを無垢材と同列で使ってみたり、真鍮や鉄、時には樹種の異なる無垢材をメタルタッチで継いでみたり、と様々なトライアルをして来た様子がうかがえる。
会場に展示してある椅子やテーブルやソファーは全て座ったり使ったり出来るようになっている。
僕はこれらに全て腰掛け、カラダにインプットしてさらにひっくり返して裏側まで舐め回すように見てきた。
この展示、2月12日(日)まで。
因みに、現在のフィン・ユール製品は全て山形県で製作されて世界に供給されている。
これまで工場によって作り方を変え、ディフォルメされ、数多くのバリエーションが存在してきたという。
そうした背景からオリジナルを探る研究も盛んなようだ。

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「シャルロット・ペリアンと日本」展

昨年の10月から始まっていた「シャルロット・ペリアンと日本」展。会場は神奈川県立近代美術館 鎌倉、そのうちに行こうと思っているうちについにこの週末で会期が終了することに。
慌てて子供を連れて鎌倉に向かった。
最終週末の美術館というとごった返すのが常だから覚悟して朝一番で向かった。
鎌倉まではちょっとした小旅行気分が味わえる。
駅はごった返していた。
そうか、鎌倉といえば鶴岡八幡宮。
鶴岡八幡宮の初詣の人出は250万人。
トップの明治神宮が320万人というからその差を考えればすごさが分かる。

20120107.jpg焦って美術館にむかったが美術館はのんびり。
とても最終週とは思えない感じ、良かった。
建物は1951年、坂倉準三の設計により完成した。
展示面積が小さいことから水面に映る風景やキラキラする光を楽しむ余裕もできる。
子供を連れて遊びに行くには好都合だ。

ペリアンは1940年のパリ陥落の翌日空爆のマルセイユを出航した客船、白山丸に乗って日本にやってくる。
ル・コルビジェのアトリエで知り合った坂倉準三の取り計らいだったのはよく知られている。
しかも、一等客室だったというから相当な歓迎ぶりだ。
ちなみに同じ客船で帰国した猪熊弦一郎、荻須高徳、岡本太郎たちは二等客室だったそう。
途中、上海ではペリアンの予定にあわせたかの様に出張中の前川國男が一番乗りで出迎えるなど、当時の日本の若手建築家たちが競いあった様子も伺える。

僅か2年の滞在ではあったが、1903年生まれのペリアンからするとむしろ年下になる1915年生まれの柳宗理、そして父、柳 宗悦の影響を強く受けたように思う。
河井寛次郎をはじめ当時の最先端とこのような短い時間で広く深く親交出来るところが彼女の魅力なのだろうな、と、今更ながら驚いた。

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